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ヘアーカットを通じた貧困支援

2016年8月、カンボジアの首都プノンペン。1990年代初頭まで続いた内戦を経て、今ではアジア随一の経済成長をとげるこの小さな国の首都で、国内初となる「美容専門学校」がオープンする。仕掛人は日本人の美容師・丸山裕太だ。

丸山は川崎市で「Hair Lounge EGO」など4軒の美容室を経営するかたわら、カンボジアで「美容を通じた貧困支援」に携わってきた。しかし、美容がなぜ貧困支援につながるのか、はじめて聞く人は疑問を持つかもしれない。

技術があれば生き抜くことができる

丸山はあるきっかけからカンボジアを訪れることになった。それは、一日2〜3ドルの収入で苦しい生活をする子どもたちの姿や、親を失って孤児院で暮らす少年少女の存在だった。自分に何かできることはないかと考えたときに、いつも手にしていた商売道具のハサミが自然と動いた。

散髪するお金すらなく伸び放題だった彼らの髪を切ると、笑みが広がった。「私にも使い方を教えて!」。請われるままハサミとクシの使い方を教えると、楽しそうにヘアーカットを学び、教え合う。そんな彼らの姿を見て、強く感じるところがあった。「技術があれば生き抜くことができる」
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散髪を教える旅芸人

散髪を教える場所は、まるで昔の旅芸人のように、農村や貧困地域を歩いて探し回った。突然現れた日本人の周りにわらわらと集まってくるのは、主に10代の少年少女たちだ。サンプルを見せて髪型のイメージを決めてもらってから、彼らの髪を切り、同時にカットの方法も教える。英語や日本語に身振り手振りを交え、1週間から10日間の講習を各地で開いた。のんびり屋で気まぐれなところのあるカンボジア人の若者に、丸山は根気強く付き合い、少しずつ生徒を増やしていった。

自分だけでは手が足りなくなると、友人の美容師や経営する美容室のスタッフ、美容学生などを日本から引き連れ、年に何度もカンボジアに通った。現地で生徒を増やしながら、10年以上に亘って地道にカットの講習をしてきたのだ。

物乞いや低賃金の仕事しかなかった彼らがハサミを握ると、1カットで2ドルほど稼ぐことができ、生活の糧を得るようになった。手に職をつけた子が、新しい生徒に技術を教え、新たな美容師が生まれるという素晴らしい循環もできた。

そして丸山は「NPO法人国際美容ボランティア協会」を14年に立ち上げた。活動の範囲をアジア各国へ広げ、美容による貧困支援と、美容の価値向上を目指すのがミッションだ。カンボジアで念願の「美容専門学校」を創るのは、その試金石となる。

しかし、ここへ至る道のりは決して平坦ではなかった。
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灼熱のカンボジアで倒れた10代の少年

義務教育に疑問を感じ、全てがつまらなく感じていた10代後半。父は東京と川崎市で理容室を営んでいたが、休みなく働きいつも疲れていた。その背中を眺めていた丸山は、将来ハサミを手に鏡の前に立つつもりは全くなかった。

ある時、たまたま目にした難民の映像に興味を惹かれ、単身カンボジアを目指した。まだ内戦が終わったばかりで、幹線道路にすら土ぼこりが舞う時代。一人、荷物を背負ってアンコールワットに向かったが、照りつける強烈な日差しの下、熱中症のため倒れてしまう。

すぐさま焼けた上半身を裸にした人々が彼の周りを囲んだ。丸山は地面からその光景をぼんやりと見上げ、身ぐるみ剥がされてしまうことを覚悟した。しかし、彼らはバケツで水をかけて介抱してくれた。それどころか、その夜はある優しい家族の家で休ませてもらうことになったのだ。

「しょぼいな自分」と自分を責め、なんだか悲しく切ない気持ちになった。都会で豊かに暮らしている自分はいつもしかめ面なのに、貧しい彼らは笑顔にあふれていた。その時、なにかが吹っ切れ、帰国してからは少しずつ笑えるようになった。丸山は17歳だった。

ニューヨークのシャンプーボーイ

初めてのカンボジア旅行から帰国した後、丸山はニューヨークに渡り、建設作業などのアルバイトをしながら暮らし始める。

強盗に襲われたのは、ニューヨークでの生活に慣れてきた頃だ。全財産を失ったが、たまたま目の前にあった美容室のオーナーに助けてもらったことがきっかけで、 現地の美容室で働くことになった。時給はわずか数ドル。そこでシャンプーを担当していたとき、客から5ドルのチップをもらい、嬉しさが素直にあふれてきた。技術でお金を稼ぐことの意味を肌で感じ、初めて「美容が好きなのかもしれない」と思った。

しばらくニューヨークで過ごした後、カットの基本技術が高い日本で美容師の勉強を本格的に始めた。雇われた美容室では、異例の7ヶ月でカットを担当するスタイリストになり、「美容師・丸山裕太」が誕生したのだ。
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世界をカットする日々

美容師として実力をつけ、いつか自分の店を持って……。普通ならこう未来を描くところかも知れないが、予定調和に収まらないのが彼の性格なのだろう。丸山は22歳の時、突然、所持金3万円だけを握りしめて香港へ飛んだ。

その理由は、「人をきれいにするためには、自分が本当に美しいものを知る必要がある」と感じたこと。アジア、中東、アフリカ、ヨーロッパ、アメリカへと約1年に亘って世界を一周することにしたのだ。

訪れた国の路上で現地の人々の髪を切り、日銭を稼いでは先へ進んだ。行き当たりばったりの旅だったが、各国の文化や経済をよく観察し、現地で美容がどのように受け取られているのか、理解しようとした。アフリカの部族には、泥で髪をパックする伝統技術も教えてもらった。

この旅を通し、丸山の「旅するように働く」美容師としてのスタイルが確立することとなる。

父の遺志を受け継いだ店

世界一周後、日本の友人の死や、理容師だった父が脳梗塞で倒れたこともあって、呼ばれるようにして帰国を決意。父の店を継ぐことになり、理容室を改装した「Hair Lounge EGO」をオープンした。昭和の空気が残る商店街にある、妙にモダンな丸山の美容室の立地が、この話を聞くと腑に落ちる。

美容室のオーナーとなって、スタッフを雇うと、徐々に責任感が湧き上がってきた。そしてなぜか、以前訪れたカンボジアの光景が思い浮かんだ。気づけば、丸山は再びカンボジアを訪れ、各地を歩き回って少年少女の髪を切っていた。
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念願の美容専門学校をオープン

現在、カンボジアでの講習は、日本人とカンボジア人の美容師よるボランティア活動がベースになっている。この夏にプノンペン63番通りのビルにオープンする美容専門学校も、講師は当面ボランティア。しかし、今後は「あくまでビジネスとして」、専門学校を運営していく予定だ。事業化することで、技術支援を持続可能にし、ゆくゆくは全国に学校を展開したいと考えている。

学校の基本講習は、クメール語のe-ラーニングで授業を受けられる体制を整えている。実技試験に合格して卒業した生徒を、プノンペンの高級サロンや日系サロンに紹介し、通常より高い賃金で雇われるように交渉・フォローアップするところまでが専門学校の役目となる。

しかし、丸山はカンボジアだけにとどまるつもりはない。東南アジア周辺国でも、美容専門学校の制度が未整備なところが多いからだ。すでに、経済先進国であるシンガポールでも専門学校の開設を準備中で、ミャンマーやインドにも何度も訪れ、現地の状況を確かめている。

丸山の夢は、各国に美容専門学校をオープンし、アジア最大の美容グループを創ることだ。そこで美容を学んだ生徒が手に職をつけて、各地で美容師として活躍する日を楽しみにしている。
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丸山裕太×コーヒー

カンボジアの北東部、ラタナキリはコーヒーの名産地だ。「Hair Lounge EGO」でもカットの後にラタナキリコーヒーを出すことが多く、「カンボジア文化を味覚で感じられるように」しているという。丸山自身は、「一日三度の飯時に必ず飲むほどカフェオレが好き」だと話す。「カンボジアでは起きるとまず外に出て、排気ガスと程よい土ぼこりを身体で感じながらカフェオレを飲んで朝を迎えます」

TEXT田川基成/PHOTO塩田亮吾

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