カンバスに散らばる線
鈴木恵美の絵を初めて見たのは、静岡県浜松市にあるセレクトショップ「signal(シグナル)」だった。こっくりと深い茶で、カンバスいっぱいに描かれた人物。動かない絵の中で、それらの人物がひっそりと生活したり会話を交わしたりしているような、不思議な息づかいを感じた。
近づいてよく見ると、カンバスのあちこちに何かで引っ掻いたような線が散らばっている。どのような描き方をしているのだろう? 引っ掻いた線の色がそれぞれ異なるのはなぜ?
そんな疑問を感じ、鈴木と初めて会った日に「制作風景を見てみたい」と伝えたところ、「個展のときも会場で制作過程をお見せすることがあるのでいいですよ」と快く応えてくれた。
凹凸のあるマルベリー紙の味わい
鈴木の絵に欠かせないものの一つが、タイ産の「マルベリー紙」だ。クワ科の植物である楮(こうぞ)を漉いた紙で、和紙のように表面がデコボコしているのが特徴だという。
「絵を描きはじめた頃は、画用紙にティッシュなどを貼って凹凸感を出していました」と鈴木は言う。しかし、ティッシュは色が変わったり劣化したりするため保管に適していない。イメージに合う紙を探していたとき、ラッピング用に購入したマルベリー紙に絵を描いてみたところ、面白い風合いが出た。それ以来、マルベリー紙は鈴木の「定番」になっている。
木製パネルの上に紙を置き、水を含ませたスポンジで全体を湿らせる。手でやさしく押さえながら紙を板になじませ、四隅をテープでとめる。できあがったばかりの清潔なカンバスは、それだけで一つの作品として成り立つような存在感がある。
絵の具を重ねて下地をつくる
紙が乾くと、続いて行うのは下地づくりだ。黒色のアクリル絵の具を刷毛にたっぷり含ませ、カンバスの表面に走らせる。一面を塗りつぶしたら、絵の具が乾かないうちにニードル(削り用工具)で引っ掻く。腕の力を抜いて、縦横無尽に、まるで遊ぶように線を描いていく。
黒色の絵の具が乾くと、次は白。ジェッソ(地塗り剤)に、ローアンバー(黄味がかった明るい茶色)のアクリル絵の具を少し混ぜ、黒色を覆うように塗り重ねて、また引っ掻く。
緑、再び白、最後に茶色。色を重ねる順番は、引っ掻くことを想定して決めるという。上澄みの絵の具を引っ掻くと、塗り重ねた絵の具が地層のようにのぞく。絵の具が乾く時間も含めて数時間。ようやく絵の下地ができあがった。
チェコアニメに魅かれ映像作家になろうと思った
鈴木は子どもの頃から画家を目指していたわけではない。名古屋造形芸術大学の短期大学部に進学した18歳の頃は、「映像制作の道に進もうと思っていた」そうだ。
映像を学ぼうと思ったきっかけは、チェコのアニメーションを観たことだった。哲学的な内容や、グロテスクなシーンなど、チェコアニメには大人向けの作品も多い。「薄暗くて埃をかぶったような、ガサガサした感じのアニメーションで、最初に見たときは『こういう表現もあるんだ』と衝撃を受けました」
ところが短大を卒業したあと、鈴木の興味は一転。平面作品にのめりこみ始めた。「映像を作っていたときも、撮影したり編集したりする作業より、映像に使うための素材作りが楽しかったんです。自分の手で描くことが好きなのだと気がつき、子どものときに使っていた絵の具でベニヤ板などに絵を描き始めました」
絵で食べていきたいと真剣に考え始めたのは23歳のとき。静岡県内の会社で働きながら、帰宅後や休日に作品づくりを進めていったという。
インプット&アウトプット
2007年に会社を退職すると、鈴木はワーキングホリデーを利用して海外へ。向かった先はロンドンだった。「名画から若いアーティストの作品まで、見られるものは全部見ようという気持ちで、毎日のように美術館やギャラリーを巡っていました。あの頃、ロンドンで見て感じたものが、今の絵にも少なからず影響していると思います」と目を細めて語る。
帰国した2008年からカフェやバーなどで展示を開始。複数の作家によるグループ展にも参加し始めた。続けるうちに、「うちで展示をしませんか」という依頼を少しずつ受けるようになったという。
2011年には、角川春樹事務所から出版された岡本かの子の文庫シリーズの表紙に絵が使用された。その表紙を書店で見たギャラリーオーナーの平井英治氏から連絡をもらい、伊豆長岡のギャラリー「noir/NOKTA(ノアール/ノクタ)」で個展を行ったことが「大きな転機になった」と鈴木は言う。
ギャラリーNOKTAでの初個展
「noir/NOKTA」は、器やオブジェ、絵画、立体作品などを中心に個展を開催しているギャラリーだ。緑豊かな庭に囲まれて、作業場だった小屋をリノベーションした「noir」と、倉庫をリノベーションした「NOKTA」が隣接して建っている。
平井氏に個展の誘いを受けたとき、「自分の絵の方向性にまだ迷いがあった」と鈴木は言う。個展に向けて制作を進めていくなかで、使用する画材の選び方やテーマの具体化、描きたい絵のイメージなどが固まっていったそうだ。
「月のはなし」をテーマに初めて個展を行った2011年から、毎年、鈴木はNOKTAで個展を行ってきた。「NOKTAは私にとって、原点に立ち返れる場所。横道にそれたり他の作品に影響を受けたりして、自分の描きたい絵が分からなくなっても、NOKTAで個展をさせてもらうことで軌道修正できるんです」
テーマや色彩が変わっても、どの絵にも“鈴木らしさ”が表れるのは「必ず使う3つの色があるから」だと鈴木は説明する。その3色とは、黄色味を帯びた明るい「ローアンバー」と、褐色に近い茶色の「バーントシェンナ」、ベルギーの宮廷画家であるアンソニー・ヴァン・ダイクに由来する「ヴァンダイクブラウン」という、味わいの異なる3つの茶色だ。今回描いてもらった作品にも、もちろんその3色が使用されている。
描きながら構図を決める
カンバスに指先でそっと触れて、絵の具が完全に乾いたことを確認する。鈴木はフウッと軽く息を吐いてから、絵の具に筆を浸す。いよいよモチーフを描いていくのだ。
はじめに描いたのはコーヒーカップだった。モチーフの形を線で描き、そのまわりをヴァンダイクブラウンの絵の具で塗りつぶしていく。絵の具が乾かないうちに、引っ掻いてモチーフの輪郭を強調する。コーヒーカップやコーヒー豆、スプーン、ドリッパー、角砂糖……。コーヒーにまつわるさまざまなアイテムが、次々とカンバスを埋めていく。
「構図はかっちり固めず、描きながら決めていきます。考えながら描いていると絵の具が乾いて削れなくなってしまうから、なるべく手を止めずにスピーディーに描いていきます」
一息に描き上げたあとで、もう少し引っ掻こうか、鈴木は迷っていた。「あまりやり過ぎると、画面がうるさくなってしまうんです。どこまで引っ掻くかはいつも悩むところですね」
こぼれた光が届く場所
完成した作品に近づいてみると、鈴木が下地づくりに時間をかけていた理由がわかった。黒や白、緑、茶。塗り重ねた絵の具が混じり合い、金属に浮かぶサビのような複雑な色合いをつくり出している。引っ掻いた線からは、まるで樹液のようにさまざまな色がこぼれ出し、光を放っているように見えた。
描いた絵を見つめながら「いつか海外でも個展を開催してみたい」と鈴木は夢を語る。「昨年は、デンマークや中国の方に絵を購入してもらいました。日本人以外の方に私の絵を『好き』と言ってもらえると、ちょっと自信になりますね」。2017年4月には、「星野リゾート 界アンジン」の温泉宿内ライブラリーに作品が常設されることが決まったという。海外旅行客が鈴木の絵を目にする機会も多くなるはずだ。
下地を丹念につくり、絵を引っ掻いたあとから光がこぼれる。その光が、より遠く、より多くの人の心に届くことを願う。
鈴木恵美×コーヒー
ギャラリー「noir/NOKTA」には併設のカフェがある。「ギャラリーの常連の方は、展示を観終えたあとにカフェに寄るのがお決まりになっています。コーヒーを飲みながら、展示について感想を交わす方も多いようで『あのお客さんがこういう意見を言っていたわよ』とオーナーさんがこっそり教えてくれることもありますね」と鈴木は言う。合同展示のときは、搬入作業が終わったあとにみんなでカフェに集い、他愛ないおしゃべりを交わすそうだ。「制作の慌ただしさから開放され、いい時間を過ごせる場所」と鈴木が評するカフェの存在も、NOKTAで個展を続ける理由の一つなのかもしれない。
【撮影協力】
ギャラリーnoir/NOKTA
住所:静岡県伊豆の国市中750-1
営業時間:11:00-17:00
※展覧会会期中は会期日程に準じてオープン
URL:http://renrens.jp/gallery/
TEXT東谷好依/PHOTO西田優太