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9月、アーツ前橋の展示室で

2016年9月、美術家の滝沢達史と一緒に群馬県前橋市の「アーツ前橋」を訪れた。滝沢が参加していた企画「表現の森 協働としてのアート」を観るためだ。「表現の森」は、マイノリティと呼ばれる人たちと関わり、アートによって何かを見いだしていく試みだった。滝沢は作品づくりのために、不登校やひきこもりの人たちが通うフリースペース「アリスの広場」に数カ月通ったという。

「はじめは、アリスの広場に通う人たちと一緒に共作をしようと考えていました。でも、結果として共作はできませんでした」と滝沢は打ち明ける。企画に沿って、美しいストーリーを仕立てることはできたが、メンバーとコミュニケーションを深めるうちに「それをしてはダメだ」と感じたのだ。
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アリスの広場には、1人の時間を確保できるスペースや、卓球台の置かれた部屋(広い部屋に、ひたすらピンポン球のはねる音だけが響くそうだ)がある。滝沢はそれらの空間を展示室に再現した。そしてその周りには、滝沢がアリスの広場で体験したことを綴った日記のような文章を配した。

アーツ前橋を訪れたのは開催最終日の前日のこと。この日は終了を惜しむように、活動に関わった人たちが入れ替わり立ち替わり滝沢に会いにやってきた。話をするだけでなく、展示物の板に文字を書く人や卓球をして遊ぶ人もいた。訪れた人の手によって、作品が変化し続けていたのが印象に残っている。
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イタリアの街角で得た「命がつながる」感覚

滝沢は1997年に多摩美術大学を卒業した。その後、すぐにイタリアへ向かったという。大学で様々な作品を作ったが、自分の目指す方向が見つからなかったからだ。そこでまずは、現代美術の世界的な権威である「ヴェネツィア・ビエンナーレ」を自分の目で見てみようと思った。

「ところが、ヴェネツィア・ビエンナーレが想像していたほど面白くなかったんです。仕方がないので、イタリアの街角でスケッチをして過ごしていたら、街の人が声をかけてくれるようになりました。絵を学びに来ていると言うと食事に招いてくれたり、町案内をしてくれたり、すごく優しく接してくれました。画学生は貧乏というイメージがあるんでしょうね」

イタリア語が満足に話せないなか、「絵を描くことで自分の命がつながるという体験がすごく面白かった」と滝沢は話す。この旅が、コミュニケーションとアートとの関係を考えていくきっかけになった。
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▲小学生のアート合宿として毎年企画をしている「カマクラ図工室/夏合宿」の様子。2015年大地の芸術祭作品「時の殻」で遊ぶ小学生たち

故郷の町で作品をつくる

イタリアへ行った3年後の2000年に、日本初の国際芸術祭「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ(以下、大地の芸術祭)」が始まった。開催エリアの一部である津南町は、奇遇にも、滝沢が10〜14歳の一時期を過ごした町だった。

開催が決まった当時を、滝沢は「日本で初めての大規模国際展が自分の育った地域で行われると知って、参加するしかないと思いました」と振り返る。大地の芸術祭の開催は3年おき。初めて参加が叶ったのは、4回目の開催となる2009年のことだった。

津南町は長野県との県境にある。90年代前半にはスキー客で賑わった町も今は過疎の町と呼ばれるようになった。「ゲレンデからの景色はすばらしくて、町が全部見わたせるんです。日本一の段数を誇る河岸段丘に町が形成されている風景は、比類の美しさですが、あまり知られていません」

山の上から町全体が見えるのと同様に、町のどこからでもこの山を仰ぎ見ることができるという。夏は緑に覆われ、冬は雪で真っ白に染まる山の姿は、土地の人々にとって日常の一部なのだ。
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ゲレンデに描いた大きな「山」の字

このような土地の有り様をベースに、滝沢は「やまもじプロジェクト」を企画した。白いシーツにさまざまな願いごとを書いてもらい、山の斜面に巨大な「山」の文字を綴るというダイナミックな作品だ。芸術祭の会期最終日の前夜には、願い事を燃やして夜空へ昇華させる「送り火」の儀式を行ったという。

「やまもじプロジェクト」には、地元住民と来訪者を合わせ、1万人もの人が参加した。そのなかには、滝沢の中学時代の同級生もいた。2009年以降、彼らは各地のアートプロジェクトを手伝いにきてくれるようになったそうだ。

「アートって都合がいいんです。日常を離れてどこかに行きたいとか、途方もないほど大きなものを作ってみたいとか、みんな思っていますよね。普段思っているけどできないことを、アートを使って可能にするということでしょうか」
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大地の芸術祭を契機に、現在では全国各地にさまざまなアートプロジェクトが立ち上がっている。滝沢もいくつかのプロジェクトに参加しているが、自身にとって親しみのある地域ばかりではない。知らない土地で、一体どのように作品のアイデアを生み出すのだろうか?

そう質問してみたところ「その土地の水で、その土地の米を炊くのと同じです」という答えが返ってきた。「土地の成り立ちを調べ、人に会ったり散策したりして、必要なリサーチを行います。そうするうちに気になることが出てきます。その『気になること』からとっかかりを探っていくんです」
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喜多方・夢・アートプロジェクト

2013年には、福島県喜多方市の「喜多方・夢・アートプロジェクト」に関わるようになった。最初に依頼されたのは、喜多方市に1カ月滞在して作品を制作するプランだったという。東日本大震災から丸2年。作家として原発問題から目を背けることはしたくなかったが、喜多方には「福島という枠で括ってほしくない」と言う人と「やはり県全体で取り組むべき問題だ」と考える人が混在しており複雑な状況だった。「この状況下で作品を展示することに力があるとは思えなかった」と滝沢は言う。

どうしようかと考えていたとき、遠くに真っ白い山が見えたそうだ。「山に行ったら違う視点でこの問題が見えるかもしれないと思って、行政の方に『あの山はなんですか』と聞きました。その瞬間、淡々と事務手続きをしていたその人の目の色がガラッと変わって、土地の歴史を熱心に語ってくれたんです」
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山の名前は「飯豊山(いいでさん)」。古くから修験道の霊山として栄えた山であり、江戸時代以降は庶民信仰の対象となっていったという。山頂には神社が建てられ、男児は13歳になると、登頂をめざす習わしがあったそうだ。会津藩が戊辰戦争に負けたあと、飯豊山は新潟県に編入された。しかし、この神社があるおかげで、今でも登山道と山頂だけは福島県の土地になっている。

「その話を聞いて、先人たちが土地を築いてきた時間を背負って山に登るというストーリーが浮かびました」と滝沢。農家で使われていた古い椅子を背負い、水の流れをたどって登頂をめざす。頂上へたどり着いたとき、果たしてどのような風景が見えるのか?

こうして、2013年に作ったのが映像作品「seou」だ。2014年には山岳信仰をテーマにした作品「katugu」、2015年には飯豊山の春・夏・秋の風景をまとめた「agemos(あげもうす=会津弁で献上する、供えるの意味)」を制作した。2016年には、震災以降土地の人たちが再生をめざしてきた蔵に、土間やカウンターを設置し絵本の蔵として蘇らせた。土間には山の頂上まで背負っていった椅子が埋められている。
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「僕らが知らない過去を、家は記憶している」

瀬戸内国際芸術祭との関わりが始まったのも、2013年だった。電話で視察の誘いが来たのは夜の9時。偶然にも近くにいた滝沢は、翌日には粟島に上陸していたという。

「ここを拠点に作品を作ってほしい」と案内されたのは築80年の古民家だった。玄関の前には大きな鳥居が立っていた。聞けば、スサノヲノミコトを祀った鳥居だという。「スサノヲは、台風や津波などの災厄をもたらす半面、豊穣の海を司るという二面性を持っている神様です。海に乗り出す漁師たちがスサノヲを祀るのは大切なことでした」

この家を掃除していたところ、襖の奥から明治〜昭和初期の古新聞が出てきた。日露戦争開戦の年のものもあり、日本が世界征服を目指す構想が書かれている。「島のおじいさんが『当時、島では飛行艇が演習をしていて、家のガラス窓が割れるくらいエンジン音がすごかったんだよ』と仰っていました。僕らはたかだか一世代前にあったことを知りませんが、この家にはずっと記憶が残っているんだと感じましたね」
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忘れ去られそうになっている過去を復元するように、滝沢は古新聞をつなぎ合わせて世界地図を作った。地図の上にはガラスの板を置き、そこに腰掛けると、窓の向こうに穏やかな海が望める。荒々しい過去と穏やかな現在の対比は、「スサノヲ」の二面性を連想させる。

古民家に案内され、掃除をし、島の人に話を聞かなければ、この作品は生まれなかっただろう。地図に使った古新聞の写真を見つめながら「こんなものが出てきたら使わざるを得ませんよね」と滝沢は笑う。
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遺物を収集・保存する「粟島研究所」

「作品を作っていると不思議な感覚に陥ることがあります。関わる人やモノすべてが、制作に導くための役割を担っているのではないかと……。作品づくりにおいて、僕は1つのネジでしかないのかもしれません。主役のつもりで始めるのですが、ほんとうはどこか上の方にいるヤツに動かされている気がして(笑)」

2016年の夏も、滝沢は粟島で制作を行っていた。粟島には、かつて国内初の国立海員養成学校が創立されたという歴史がある。この話を土台にして制作したのが、江戸〜明治時代に海を渡ってきた島の遺物を収集・保存する「粟島研究所」だ。古い家屋に足を踏み入れると、朽ちた書物やガラスの容器が並ぶ不思議な研究室が広がっている。
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弓道が盛んな粟島では、昼どきになると島の住民たちが弓を引く。滝沢も時間を見つけては弓を引き、島の人たちと一杯飲んでから、また制作に戻る日々を送っていたという。「何の違和感もなく土地に溶け込んでいた」というのは、粟島で写真を撮影してくれたカメラマンの報告だ。

「郷に入っては」を躊躇なく実践できるやわらかな感性。「どこか上の方にいるやつ」は、滝沢のそんなところに引き寄せられるのかもしれない。
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滝沢達史×コーヒー

「やっぱり福島県の飯豊山の上で飲むコーヒーが最高にうまいですね」と滝沢。「いつも一緒に登っている人がカフェを経営しているので、頂上で淹れてくれるんです。山頂の雪解け水はおいしいし、一番ぜいたくなコーヒーだと思います」。標高2105mの飯豊山には8時間くらいかけて登るのだという。「朝5時くらいに登り始めて、上に着いたら一息つき、夕陽を見ます。その時にコーヒーを淹れるんです。寒いから、温かい湯気の湿り気が鼻腔にスーッと入ってきて……。今年(2016年)6月に飯豊山に登ったときもコーヒーを飲んできました」
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TEXT東谷好依/PHOTO塩田亮吾

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